
志賀の陣は、比叡山焼き討ちの原因となった戦い。今日はその舞台を中心に、またまた、明智光秀を追います(笑)

浅井長政・朝倉義景連合軍の南進に備えるべく、1570(元亀元)年、織田信長の命により森可成(よしなり:森蘭丸の父)が築城した宇佐山城。近江で初めて、石垣によって築城された貴重な城郭らしい。

宇佐八幡宮から出発します。

御足形〜。1065(治暦(じりゃく)元)年、鎮守府将軍 源頼義が、八幡宮創建の検分をしていた時、この岩の上に神鳩が現れ、建立の地として誘導したのだそう(驚) 健脚を祈り、霊験をうける人が多いのだとか。ソレハ イノッテ オカナケレバ(祈)

表参道に進みます。

金殿井(かなどのい)〜。

第38代天皇 天智天皇(626〜672年) 御平癒の霊泉らしい。スゴイ レキシ(驚)

宇佐山城址を目指します!

1570(元亀元)年9月、野田城・福島城の戦いに大坂(石山)本願寺が参戦し、信長が摂津に釘付けになっている隙に、浅井・朝倉の連合軍は、手薄な琵琶湖西岸から南進し、京への侵攻を企てました。

それを阻止しようと出陣した宇佐山城主 森可成は、討ち死に(涙) 連合軍は宇佐山城に攻めよるものの、落とすことはできず、京の醍醐・山科まで進軍します。

報を受けた信長が京へ引き返すと、連合軍は壺笠山城など比叡の山々に布陣し籠城。信長勢も山麓に布陣するものの、反信長の火の手が近江各所であがり、容易には動けず(汗) 結局、両者は山の上下で膠着状態に。

将軍 足利義昭の斡旋で、和睦が成立。互いに陣を引き払って、本国に戻ったのだそう。

和睦後、宇佐山城には光秀が入城。土豪の懐柔策を進めたのだそう。

これが、もともとの“登城道”らしい(嬉)

おっ!いよいよ城郭っぽい地形がみえてきました〜。

わっ!本丸への階段〜。

ここを登るとぉ

本丸の跡地に…NHKと民放のアンテナ施設〜(悲)

おっ!遺構かな??

ここは櫓(やぐら)跡?? 下は二ノ丸〜!

二ノ丸方向から見上げる本丸〜。

アンテナ施設の床下。これは遺構??

本丸から東の下方向〜。

あっ!忘れてた(汗) 宇佐山山頂にっ、到着〜!

本丸をくだると

石垣〜(輝) コノ ホトケサマ ハ イツ ノ ジダイ カラ ヲ ゴゾンジ ナノ デショウ

自然石をそのまま積み上げる、野面(のづら)積み〜。

穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる石工集団がいたので、石垣作りはお手のものです。

三ノ丸への土橋〜。

キャ―――!

宇佐山城三ノ丸から北方向の眺望〜! ミツヒデ モ ミタ ケシキ カナア

沖島から、長命寺山・奥島山(第48,58,59,65,70回)ソラカナテラス モ〜!(笑) ステキ〜(恋)

近江富士(三上山)(第10回) ドドーン!

比叡山(第66回)から比良山系〜(美)

音羽山(第60回)〜。

眺望と歴史を堪能したら

下山します。

せっかくなので、宇佐八幡宮にも行ってみます。

宇佐山城ができる500年以上も前に建立された神社(当時の社殿は戦火で焼失)なんやねぇ。シミジミ

宇佐山より、無事に下山完了〜! 次は、連合軍が籠城した壺笠山城址にむかいます。

穴太野添(あのうのぞえ)古墳群は、6世紀中旬〜7世紀初旬に造られた180基ほどからなる円墳群で、大津市野添墓地の中に古墳公園として残されています。マア ドッチモ オハカ ヤモン ネ

壺笠山へは、墓地の中を通っていきます。ヨル ハ ゼッタイ ニ ムリ(怖)

野添第12号墳〜。琵琶湖を眺められる好立地ですが、下は全て墓地です(汗)

野添第16号墳の横穴式石室〜。

フムフム。

平子谷林道を進みます。

ここは、近江穴太と京の一乗寺とを結ぶ街道“白鳥(しらとり)越え(古路(ふるみち)越)”の要所に位置し、壺笠山城は、3世紀後半頃に造られた円墳(壺笠山古墳)頂部の平坦部をそのまま本丸として築城されたのだそう。コノヘン イッタイ コフン ダラケ ヤッタン ヤネエ

山之大神様〜(祈) ホコラ ノ ウシロ ガ イワクラ ラシイ

キャンプができそうな広場もあります〜。

ジブリの世界にでてきそう〜(笑)

平子谷川の水音を聞きながら進みます。

第貳號(だいにごう)橋〜!

キャ―!滝〜(輝)

こっちも〜!水量も水勢も半端なくて、吸い込まれそうでちょっと怖い反面…

たまらなく心地いい〜(幸)

ここからしばらくの間

沢の音や流れを楽しみながら、進みます。

『つまらない林道をひらすら歩く』とレポされている方がおられましたが…全然つまらない林道なんかじゃありません〜(喜)

ヘアピンカーブを登っていきます。カーブせずに進むと、京に出ます。

連合軍が布陣した、左が青山(あほ山)、右が壺笠山(つぼ笠山)〜!

ここから壺笠山に

登っていきます。ワクワク

マークをたどって歩いていると、なぜかくだりに…(汗)

ここはなに?? レスキューポイントのようです(汗) ムダアシ ヲ クッタ ヨウ デスガ…オカゲデ

琵琶湖を見ることが

できました〜(輝)

せっかくなので、ちょっとだけ別の場所から、登り返します(笑)

さっき間違えた場所…上にもちゃんとマークがありました(涙) ソラ ソウ ヤンネ

このガッツリ急な登り坂を見て、なぜかワクワクしている自分が…怖い(笑)

石がゴロゴロ〜。

わっ!石垣がでてきました〜(喜)

本丸の下をグル〜っと廻ります。

わっ!石段〜(輝) センゴク ブショウ タチ ガ トオッタ ミチ〜(嬉)

この坂を登ると

壺笠山山頂〜および

壺笠山古墳 および 壺笠山城址に

到着〜!

眺望はありません。

志賀の陣の和睦後、壺笠山城は光秀によって修復された??カモ(笑)…ショウサイ ハ フメイ ラシイ

神輿山へは

マークをたどって

進んでいきます。

ここにも何かあったのかなぁ??

わっ!比叡山のお寺が見える〜(嬉) 右には坂本ケーブル ケーブル延暦寺駅(第66回)〜! レンゴウグン ハ エンリャクジ カラ シエン ヲ ウケテ ロウジョウ シテイタ ンヤモンネ

神輿山山頂に

到着〜!

木がなかったら…

360度の眺望やのになぁ…。

もと来た道を、戻ります。

壺笠山より、無事に下山完了〜! 次は、光秀の居城であった坂本城址にむかいます。

坂本城址公園に着くと、坂本城を考える会のボランティアガイドさんが、色々と教えてくださいます(嬉)
「どこかに寄って来られましたか?」「宇佐山と壺笠山に登ってきました。」「えっ?城マニアですか?(笑)」 イエ シロマニア デハ アリマセン(笑)

1571(元亀2)年9月、比叡山焼き討ちを行った信長は、宇佐山城城主であった光秀に近江国志賀郡を与え、

比叡山と山麓の志賀郡一帯のおさえとして、1572(元亀3)年、坂本城を築かせました。

城内に琵琶湖の水を引き入れた水城で、高層の大天主と小天主がそびえていたのだそう。宣教師ルイス・フロイスが、“豪壮華麗で安土城につぐ名城”と記す坂本城は、安土城より4年も早くに着工されており、近世の城郭の先駆的な存在だったようです(輝) スバラシ スギル〜

二ノ丸跡地にある東南寺〜。坂本城落城の際の死者を弔う首塚があります。

二ノ丸の西南端〜。

二ノ丸と三ノ丸の間にあった内堀を進みます。

三ノ丸の外堀跡〜。

三ノ丸跡地にある酒井神社と両社神社〜。

現在の本殿は、のちの坂本城主 浅野長政の次男 長晟(ながあきら)が建立したものだそう。

明智家の家紋“桔梗紋”〜! ミツヒデロード ヤネ

明智塚に到着〜!

坂本城落城の際に、脇差(わきさし)名刀の郷義弘(ごうのよしひろ)並びに宝器物を埋めた跡であり、明智一族の墓所であると伝えられているのだそう(祈)

いよいよ、本丸跡に到着〜! キーエンスの保養所跡地が、臨時駐車場として開放されています。

キャ―――!本丸から眺める景色―――!

約20mにわたって残る石垣は、今は…琵琶湖の中(悲)

光秀も眺めたであろう対岸の山並み〜!

長命寺山から狼煙(のろし)があがると、長浜城の秀吉、安土城の信長、坂本城の光秀、高溝城の織田(津田)信澄、すべてが見ることができたのだそう。スゴーイ

坂本城を築城してから、本能寺の変・山崎の戦いまでの10年間にも、素晴らしい功績を残した光秀に…オモイヲ ハセル

本丸の後方には比叡山。サカモト ッテ コンナ トコロ ヤッタンヤネエ

今日は、琵琶湖畔でランチです〜! ウミ デハ アリマセン ミズウミ デス

お餅と水を投入したら

あとは待つだけ〜。

う〜ん、トロトロになってきた〜(嬉) 水気がなくなったら

砂糖きなこをたっぷりと絡めて、きなこ餅の完成〜!

う〜ん!美味しい〜! お腹が満たされたら、次は、聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)にむかいます。

ここには、宇佐山城主であった森可成の墓があったため、比叡山延暦寺の念仏道場であったにもかかわらず、比叡山焼き討ちの際も、難を逃れたのだそう。

この門は

坂本城の城門を移築したものです(輝)

宇佐山城主 森可成のお墓にお参りしたら、ホンジツ ハ コレニテ シュウリョウ〜
※県営都市公園下坂本湖岸緑地公園駐車場にトイレあり。